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グルントリッセ(経済学批判要綱)

池田光穂

「マ ルクスは亡命生活を始めた1843年秋以来、経済学・哲学・革命論などの研究を行い、「パリ・ノート」9冊、「ブリュッセル・ノート」6冊、「マンチェス ター・ノート」5冊などが残されている。1849年にロンドンに亡命してからは共産主義者同盟などで政治活動を行う傍ら、毎日のように大英博物館図書館へ 通って研究を続け、1850年9月頃から1853年にかけて「ロンドン・ノート」24冊を書きためていた。1857年夏頃からマルクスは、経済恐慌と革命 の到来を予想して研究をまとめ始め、実際に起こった1857年恐慌のなかで、1858年5月までにノート7冊に及ぶ草稿を一気に執筆した。」——『(, )』[]

草 稿の構成

Bastiat und Carey ([Frédéric Bastiat, 1801-1850]とケアリ→キャリー[, 1793-1879])

Einleitung zu den "Grundrisse der Kritik der politischen Ökonomie" (「経済学批判要綱」への序説)

I. Produktion, Konsumtion, Distribution, Austausch (Zirkulation) (生産・消費・分配・交換(流通))

1. Produktion(生産)

2. Das allgemeine Verhältnis der Produktion zu Distribution, Austausch, Konsumtion(分配・交換・消費への生産の一般的関係)

3. Die Methode der politischen Ökonomie(経済学の方法)

4. Produktion, Produktionsmittel und Produktionsverhältnisse. Produkutionsverhältnisse und Verkehrsvehältnisse. Staats- und Bewußtseinsformen im Verhältnis zu den Produktions- und Verkehrsvehältnissen, Rechtsvehältnisse, Familienvehältnisse(生産、生産手段と生産関係、生産関係と交通関係、生産・交通関係との関係における国家・意識形態、法関係、家族 関係)

***

Grundrisse der Kritik der politischen Ökonomie - Erster Teil(経済学批判要綱・その一)

II. Das Kapitel vom Geld (貨幣にかんする章) 

III. Das Kapitel vom Kapital (資本にかんする章)

Erster Abschnitt: Der Produktionsprozeß des Kapitals(第一の項目:資本の生産過程)

Grundrisse der Kritik der politischen Ökonomie - Zweiter Teil(経済学批判要綱・その二)

III. Das Kapitel vom Kapital (Fortsetzung) (資本にかんする章・続き)

Zweiter Abschnitt: Der Zirkulationsprozeß des Kapitals (第二の項目:資本の流通過程)(この一部が「資本制生産に先行する諸形態」)

Dritter Abschnitt: Das Kapital als Frucht bringend. Zins. Profit. (Produktionskosten etc.) (第三の項目:果実をもたらすものとしての資本、利子、利潤、(生産費用、等々))

Ergänzungen zu den Kapiteln vom Geld und vom Kapital (貨幣にかんする章と資本にかんする章とへの補足)

1. Wert (価値)

Gold-weighing Machines (金貨計量機)

(出典)新MEGA、『マルクス資本論草稿集1』および『同2』に基づく。

● 知識と要綱

すべての価値が貨幣で測られている物価表では,物の社会的性格の人間か らの独立性は同時に,この異質性(Fremdartigkeit)という基礎に立つ 商業の 活動のように同時に見えている.この異質性において全生産関係,全交易関 係が個人に.すべての個人に対立して現れるが,それはふたたびこの異質性 を個人の手にゆだねるためである.世界市場の自立化〈各個人の活動が そこ に包括されている〉について言わせてもらえば,それは貨幣関係(交換価値) の発展とともに増大し,またその反対のことも言える.生産と消費とにおける 一般的関連と全面的依存性とは,消費者と生産者との独立性および無関心性 とともに増大する.この矛盾が恐慌にみちびく,等々であるのだから,こう した疎外の発展と同時に,それら独自の地盤のうえでこれを止揚しようとい う試みがおこなわれることになる.つまり,物価表,為替相場,手紙や電信 による商業従事者相互の連絡,等(通信手段は当然同時に発展する〉がそれ であり,こうして各個人は,他のすべての人々の活動について情報を入手し, それに従って彼ら自身の活動を調整しようとする.〈すなわち,すべての人 人の需要と供給とがすべての人々から独立しておこっているにもかかわらず, どの人もが一般的な需要と供給の状況に通暁しようとする.次いでこの知識 がふたたび需要と供給とに実際に影響する.これらすべてのことは,所与の 立場においては,異質性を止揚するものではないが,古い立場を止揚する可 能性をそのうちにふくむ諸関係と諸結合とをもたらすものである.)(一般的 な統計の可能性その他.)(なおこのことは,「価格,需要と供給」という範疇 のもとで展開するはずである.さらにここで注意すべきことは,商業と生産 との全体についての概観が,実際には物価表の形で存在するかぎりでは,い かに各個人にとって彼ら自身の交換と生産とが物的な,彼らから独立した関 係として各個人に対立するかという,最良の証明をあたえるということであ る.世界市場では,各個人のすべての人々との関連,だがまた同時に各個人自身からのこの関連の独立性は,この関連の形成が同時にそれ自身からの移 行の諸条件をもすでにふくむほどの高度に発展している.〉現実の共通性と 一般性とにかわる均等化.(第一分冊 82)

〈まさにこうした自然生的な,個人の知識や意思から独立した,そしてま さしく個人の相互的な独立性と無関心性とを前提する関連に,物質的かつ精 神的な新陳代謝に,美しさと偉大さとがもとづいていると言われてきたし, また言われてもよいであろう.そしてこの物的な関連が,諸個人の没関連性 や,あるいはまた狭い原始血縁的自然,支配と隷属の[関係]のうえにうち たてられている地域的関連ゃにまさっていることはまちがいない.同様に, 諸個人が彼ら自身の社会的関連をつくりださないうちは,彼らはこのような 関連を自己の支配下におくことのできないこともまちがいはない.しかしか のたんに物的な関連を,自然生的な,個性の本性〈反省された知識や意欲と は反対に〉から分離できない,それに内在する関連として理解することは, ばかげたことである.それは諸個人の産物である.それは,一つの歴史的産 物である.それは個人の歴史的発展の一定段階に属するものである.物的関 連が個人とまだ対立して存在する異質性と自立性の状態は,諸個人がまだそ の社会生活の諸条件を創造する過程にあり,こうした諸条件から出発してす でに社会生活を始めているのではないことをしめしているだけである.社会 生活というのは,関連,自然生的な,一定の狭臨な生産関係内部での諸個人 の関連である.彼ら自身の共同的関係としてやはり彼ら自身の共同的規制に 服しているような社会的関係をもっ普通的に発展した諸個人は,自然の産物 ではなくて,歴史の産物である.こうした個性が可能になる力能の発展の程度 〈院と普遍性とは,まさに交換価値を基礎とする生産を前提としており,この生 産は,一般性とともに,個人の自己および他人からの疎外を,だがまたその 対外関係(Beziehungen)と能力(Fii.higkeiten)とのー般性と全面性をもはじ めて生産する.初期の発展段階では,個々の個人はより完全な形で現れてい る.なぜなら彼はまさにそのありあまる対外関係をまだっくりだしていなか ったし,それを彼とは独立した社会的な力や諸関係として自己に対立させて はいなかったからである.かの原始的な豊かさに帰りたいと望むことが笑う べきことであるように,かのまったき空虚にとどまるべきだという信仰もま た笑うべきものである.ブルジョア的見解は,かのローマ的見解にたいす る対立以上に出たことはないのであって,それゆえ正当な対立としてのロー マン 的見解は, 天国のはてまでもブルジョア的見解といっしょにいくだろ う.)第一分冊 82-83
共同的生産が前提されたばあい,時間規定は当然のことながら依然として 本質的な意義をもつ.社会が小麦や家畜等々を生産するために要する時間が 少なければ少ないほど,ますます多くの時間を,その他の生産——物質的ま たは精神的な——のために社会は獲得する.個々の個人のばあいと同じく, 社会の発展,社会の享楽,社会の活動の全面性は,時間の節約にかかってい る.時間の経済,すべての経済は結局そこに帰着する.社会が,自己の全欲 望に即応した生産を達成するために,その時闘を合目的的に分割しなければ ならないのは,個人が,適当な比例で知識を得たり,あるいは彼の活動にた いするさまざまの要求に満足をあたえたりするために,彼の時間を正しく分 割しなければならないのと同様である.だから時間の経済は,生産のさまざ まの部門への労働時間の計画的配分と同様に,依然として共同的生産の基礎 のうえでの第一の経済法則である.それはさらにはるかに高度な趣旨ですら 法則となる.しかし,この法則は,労働時間により交換価値(労働または労却 働生産物)を測定することとは本質的にちがっている.同一労働部門での個 人の労働と,異なる種類の労働とは,たんに量的にばかりでなく,質的にも 〈伺)ちがっている.物のたんに量的な区別はなにを前提しているか? その質の 同一性(Dieselbigkeit)である.したがって労働の量を測定することは,その 質の同格性(Ebenburtigkeit),同一性を前提している. 貨幣に関する意、第一分冊 93
だから貨幣を,個別化された明確有形な物として偶然に探しだし,見いだ し盗み, 発見することができ, そして一般的宮を明確な形で個々の個人 の占有のもとにおくことができる. 貨幣は, それがたんなる流通手段とし て現れる下僕の状態から,突然に商品世界の支配者,神になる.貨幣は商品 の天国的存在を表わし,他方商品は貨幣の現世的存在を表わしている.自然 的富のすべての形態は,富が交換価値によっておきかえられるまえに,対象 にたいする個人の本質的な関連を前提している結果,個人自身が彼の一つの 側面では物のうちに対象化しており,個人が物を占有するのは,同時に個人 の個性の一定の発展として現れる.つまり羊での富は,牧人としての個人の 発展を表わし,穀物での富は,耕人としての個人の発展を表わしている等々. 反対に貨幣は,一般的富の個体として,それ自身流通に由来してただ一般者 だけを代表するものとして,ただ社会的結果にすぎないものとして,まった くその占有者とのなんらの個人的関係をも前提していない.つまり貨幣を占 有することは,貨幣の個性のなにかある一つの本質的側面が発展したもので はなく,むしろ没個性を占有することである.それは,こうした社会的[関 係]が,同時に感性的・外的な物として存在しており,この物は機械的にわ がものとすることもできるし,同じくまた失われることもあるからである. したがって貨幣の個人にたいする関係は,純粋に偶然的なものとして現れる. ところが,貨幣の,個人の個性とはまったく関連しない物にたいするこの 関連は,この物の性格によって,社会にたいする,享楽,労働等々の全領域 にたいする一般的支配を同時に個人にあたえる.ちょうどそれは,たとえば 一つの石の発見が,私の個性とは全然独立に,あらゆる科学の知識を私がも つ機縁ともなりうるようなものであろう.貨幣の占有は,富〈社会的〉との関 係で,賢者の石が私を科学との関係でおくのとまったく同じ関係に私をおく 第二分冊 140
……共同団体の目的,個人の目的は——生産の条件と同様に——これらの 一定の生 産諸条件の再生産であり,また個々別々の個人だけでなく,社会的な分離と 関連とにおける個人の——これら諸条件の生きた担い手としての——再生産 である.資本は,富そのものの生産を,したがって生産力の普遍的発展を,資 本の現存する諸前提のたえまない変革を,資本の再生産の前提として措定す る.価値は使用価値を排除するものではない.したがって消費等,交易等の 特殊な種類を絶対的条件としてふくむものではない.そして同様に資本にと っては,社会的生産力,交易,知識等の発展の程度はすべて,克服につとめ るべき制限としてだけ現れる.資本の前提そのもの——価値——は,生産物 として措定されているのであって,生産の上方にうかんでいるより高い前提 として措定されているのではない.資本の制限は,このいっさいの発展が対 抗的におこなわれるということ,生産力,一般的富等,知識等は,労働する 個人自身が自己を譲渡する(entauBert)というようなかたちでつくりだされ るということ,すなわち労働する個人が彼によってっくりだされたものにた いして,彼自身の宮の諸条件としてではなく,他人の宮と彼自身の貧困の諸 条件として関係するというようなかたちでつくりだされるということであ る.しかしこの対抗的形態それ自身は,消滅するものであり,それ自身を止 揚する現実的諸条件を生産する.結果はこうである.すなわち,その傾向と 可能性(ギリシャ語)からみての生産力——富一般——の,基盤としての一般的発 展,また同様に基盤としての,交易の普通性,したがって世界市場.個人の 普遍的発展の可能性としての基盤,および諸個人の制限——それは制限とし て意識されているのであって,聖なる限界(heilige Grenze)とはみなされな い——の不断の止揚としてこの基盤から発する個人の現実的発展.思惟され たり,または想像されたりしたものとしてではなく,個人の現実的および観念 的諮関連の普遍性としての個人の普遍性.したがってまた,彼自身の歴史を ーつの過程として理解し,また〈同様に彼にたいする突践的な力(praktische Macht)として現存する〉自然、を彼の現実的肉体(Leib)として知ること.発 展の過程そのものは,過程の前提として措定され,意識されている. ……ノートV 478ページ
対 象化された労働は機械装置において,それ自体直接に生産物の形態, ないしは労働手段としてもちいられる生産物の形態で現れるばかりでなく, 生産力それ自体という形態で現れる.労働手段の機械装置への発展は,資本にとっては偶然的なものではないのであって,伝来の労働手段の歴史 的改 造,資本に適当したその変形である.社会的頭脳の一般的生産諸力である知 識と熟練の蓄積は,このようにして労働に対立して資本に段収され,したが って資本の性質,より正確には生産過程に本来的生産手段としてはいるかぎ りでの,固定資本の性質として現れる.したがって機械装置は固定資本のも っとも妥当な形態として現れるのであり,また固定資本は,資本が自己自身と の関連で考察されるかぎりでは,資本一般のもっとも妥当な形態として現れ るのである.他方では固定資本が一定の使用価値としてのそれの定在に繋縛 されているかぎりでは,固定資本は資本の概念に照応しない.資本は価値と しては使用価値のどんな特定の形態にたいしても無関心であって,無関心な 体化としてのそのどんな形態をも身につけたり,ぬぎすてたりすることがで きる.このような側面からみれば,外にむかつての資本の関係からみれば, 固定資本にくらべて流動資本が資本のもっとも妥当な形態として現れる. 資本に関する章、第二編資本の流通過程 646-647ページ
なおまた機械装置が社会の科学,生産力一般の蓄積とともに発展するかぎ りでは,一般的社会的労働が自己を表示するのは,労働においてではなく て,資本においてである.社会の生産力は固定資本で測定され,そのなかに 対象的形態で実存するのであり,また反対に資本の生産力は,資本が無償で (gratis)領有するこの一般的進歩とともに発展する.ここでは機械装置の発 展を細目にわたって(en detail)ではなくて,たんに一般的側面からだけ研 究すべきである.固定資本において労働手段が,それの素材的側面からみて その直接的形態をうしない,索材的に資本として労働者に対立するかぎり で,研究すべきである.機械装置において知識は労働者の外にある無縁なも のとして現れる.そして生きた労働は,自立的に作用する対象化された労働 のもとに包摂される.労働者は,彼の行動が[資本の]欲望によって条件づ けられていなし、かぎりでは,余分なものとして現れる 資本に関する章、第二編資本の流通過程 647ページ
自然は機械を作りださないし,機関車,鉄道,電信(electric telegraphs),ミ ュール自動精紡機(selfacting mules)等を作りださない.それらは人間の勤労 (menschliche Industrie)の産物である.《言いかえるなら》自然を支配する人間 の意志の器官,または自然における人間の意志の実証の器官に転化されてい る天然の材料である.それらは人間の手によって創造された人間の頭脳の器 官,対象化された知力である.固定資本の発展は,一般的社会的知識(Wis sen, Knowledge)がどの程度まで直接的生産力となったか,したがって社会 的生存過程それ自体の諸条件がどの程度まで一般的知性(general intellect) の支配下にはいったか,この知性にしたがってどの程度まで改造がおこなわ れたか,をしめしている.《固定資本の発展は,》社会的生産力が,知識とい う形態でばかりでなく,社会的実践の,現実的な生な生存過程の直接的器官とし て,どの程度まで生産されたか,《をしめしている》. 資本に関する章、第二編資本の流通過程 655ページ
自 由時間——それは余暇時間であるとともにより高度な活動にとっての時間で ある——は,いうまでもなくそういう時間をもっている者をある別の主体に 転化するのであって,そのばあい彼はこうした別の主体として直接的生産過 程にもはいっていく.これこそはすなわち,生長しつつある(werdend)人間 についてみれば訓練(Disziplin)であると同時に,生長した(geworden)人間に ついては,実行(Ausiibung),実験科学,物質的に創造的な,かつ自己を対象 化する科学であって,この生長した人間の頭脳のなかに社会の蓄積された知 識が存在する.両者にとって,農業でのように,労働が実践的な操作(Handanlegen) と自由な運動とを必要とするかぎりでは,同時に実践実習(exercise)で ある. 第二編資本の流通過程 661ページ


●knowledge and Capital

1. "Since, ‘if you please’, the autonomization of the world market (in which the activity of each individual is included), increases with the development of monetary relations (exchange value) and vice versa, since the general bond and all-round interdependence in production and consumption increase together with the independence and indifference of the consumers and producers to one another; since this contradiction leads to crises, etc., hence, together with the development of this alienation, and on the same basis, efforts are made to overcome it: institutions emerge whereby each individual can acquire information about the activity of all others and attempt to adjust his own accordingly, e.g. lists of current prices, rates of exchange, interconnections between those active in commerce through the mails, telegraphs etc. (the means of communication of course grow at the same time). (This means that, although the total supply and demand are independent of the actions of each individual, everyone attempts to inform himself about them, and this knowledge then reacts back in practice on the total supply and demand. Although on the given standpoint, alienation is not overcome by these means, nevertheless relations and connections are introduced thereby which include the possibility of suspending the old standpoint.) (The possibility of general statistics, etc.) (This is to be developed, incidentally, under the categories ‘Prices, Demand and Supply’. To be further noted here only that a comprehensive view over the/ whole of commerce and production in so far as lists of current prices in fact provide it, furnishes indeed the best proof of the way in which their own exchange and their own production confront individuals as an objective relation which is independent of them. In the case of the world market, the connection of the individual with all, but at the same time also the independence of this connection from the individual, have developed to such a high level that the formation of the world market already at the same time contains the conditions for going beyond it.) Comparison in place of real communality and generality.(pp.91-92)"

2. "On the basis of communal production, the determination of time remains, of course, essential. The less time the society requires to produce wheat, cattle etc., the more time it wins for other production, material or mental. Just as in the case of an individual, the multiplicity of its development, its enjoyment and its activity depends on economization of time. Economy of time, to this all economy ultimately reduces itself. Society likewise has to distribute its time in a purposeful way, in order to achieve a production adequate to its overall needs; just as the individual has to distribute his time correctly in order to achieve knowledge in proper proportions or in order to satisfy the various demands on his activity. Thus, economy of time, along with the planned distribution of labour time among the various branches of production, remains the first economic law on the basis of communal production. It becomes law, there, to an even higher degree. However, this is essentially different from a measurement of exchange values (labour or products) by labour time. The labour of individuals in the same branch of work, and the various kinds of work, are different from one another not only quantitatively but also qualitatively. What does a solely quantitative difference between things presuppose? The identity of their qualities. Hence, the quantitative measure of labours presupposes the equivalence, the identity of their quality.(p.103)"

3. "We saw earlier that property in the conditions of production was posited as identical with a limited, definite form of the community; hence of the individual with the characteristics – limited characteristics and limited development of his productive forces – required to form such a community. This presupposition was itself in turn the result of a limited historic stage of the development of the productive forces; of wealth as well as of the mode of creating it. The purpose of the community, of the individual – as well as the condition of production – [is] the reproduction of these specific conditions of production and of the individuals, both singly and in their social groupings and relations – as living carriers of these conditions. Capital posits the production of wealth itself and hence the universal development of the productive forces, the constant overthrow of its prevailing presuppositions, as the presupposition of its reproduction. Value excludes no use value; i.e. includes no particular kind of consumption etc., of intercourse etc. as absolute condition; and likewise every degree of the development of the social forces of production, of intercourse, of knowledge etc. appears to it only as a barrier which it strives to overpower. Its own presupposition – value – is posited as product, not as a loftier presupposition hovering over production. The barrier to capital is that this entire development proceeds in a contradictory way, and that the working-out of the productive forces, of general wealth etc., knowledge etc., appears in such a way that the working individual alienates himself [sich entäussert]; relates to the conditions brought out of him by his labour as those not of his own but of an alien wealth and of his own poverty. But this antithetical form is itself fleeting, and produces the real conditions of its own suspension. The result is: the tendentially and potentially general development of the forces of production – of wealth as such – as a basis; likewise, the universality of intercourse, hence the world market as a basis. The basis as the possibility of the universal development of the individual, and the real development of the individuals from this basis as a constant suspension of its barrier, which is recognized as a barrier, not taken for a sacred limit. Not an ideal or imagined universality of the individual, but the universality of his real and ideal relations. Hence also the grasping of his own history as a process, and the recognition of nature (equally/ present as practical power over nature) as his real body. The process of development itself posited and known as the presupposition of the same. [33] For this, however, necessary above all that the full development of the forces of production has become the condition of production; and not that specific conditions of production are posited as a limit to the development of the productive forces.(pp.466-467)"

4. "‘This continual progression of knowledge and of experience,’ says Babbage, ‘is our great power.’ [21-Babbage, Traité sur l’économie, p. 485.] This progression, this social progress belongs [to] and is exploited by capital. All earlier forms of property condemn the greater part of humanity, the slaves, to be pure instruments of labour. Historical development, political development, art, science etc. take place in higher circles over their heads. But only capital has subjugated historical progress to the service of wealth. (p.512)"

5. "The accumulation of knowledge and of skill, of the general productive forces of the social brain, is thus absorbed into capital, as opposed to labour, and hence appears as an attribute of capital, and more specifically of fixed capital, in so far as it enters into the production process as a means of production proper. Machinery appears, then, as the most adequate form of fixed capital, and fixed capital, in so far as capital’s relations with itself are concerned, appears as the most adequate form of capital as such. In another respect, however, in so far as fixed capital is condemned to an existence within the confines of a specific use value, it does not correspond to the concept of capital, which, as value, is indifferent to every specific form of use value, and can adopt or shed any of them as equivalent incarnations. In this respect, as regards capital’s external relations, it is circulating capital which appears as the adequate form of capital, and not fixed capital. ..... In machinery, knowledge appears as alien, external to him; and living labour [as] subsumed under self-activating objectified labour. The worker appears as superfluous to the extent that his action is not determined by [capital’s] requirements.(p.616)"

6. "They are organs of the human brain, created by the human hand; the power of knowledge, objectified. The development of fixed capital indicates to what degree general social knowledge has become a direct force of production, and to what degree, hence, the conditions of the process of social life itself have come under the control of the general intellect and been transformed in accordance with it. To what degree the powers of social production have been produced, not only in the form of knowledge, but also as immediate organs of social practice, of the real life process.(p.626)"

7. "This process is then both discipline, as regards the human being in the process of becoming; and, at the same time, practice [Ausübung], experimental science, materially creative and objectifying science, as regards the human being who has become, in whose head exists the accumulated knowledge of society. For both, in so far as labour requires practical use of the hands and free bodily movement, as in agriculture, at the same time exercise.(p.631)"

8. "As regards money as constantly self-identical equivalent, i.e. as value as such, and thus as the material of all contracts, it is clear that the changes in the value of the material in which it represents itself (directly, as in gold, silver, or indirectly, as claims, in notes, on specific quantity of gold, silver etc.) must bring about great revolutions between the different classes of a state. This not to be examined here, since these relations presuppose knowledge of the various economic relations. Only something by way of illustration. In the sixteenth and seventeenth centuries, it is well known that the depreciation of gold and silver, due to the discovery of America, depreciated the labouring class and that of the landed proprietors; raised that of the capitalists (specially of the industrial capitalists). In the Roman republic, the appreciation of copper turned the plebeians into the slaves of the patricians. ‘Since one was forced to pay the largest sums in copper, one had to hold this money in masses or in stamped fragments which were tendered and received by weight. Copper in this state was aes grave.(p.724)"

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