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 エコ・ツーリストと熱帯生態学

Eco-tourists and their own Knowledge of tropical ecology

 池田光穂【β版】(1)

  生態学は未だ理論家の予測に頼るより経験豊かな実践家の判断に頼るほうがましな科学分野 なのだ。 ——ジョン・メイナード=スミス(1975)

  生態学は増大する環境破壊に対して当初から警告を発してきたが、ほとんど無視されてき た。そして生態学の効果的な対策や予防策への重要な指針もあったが、利用されることは滅多になかった ——ロバート・P・マッキントッシュ(1985)


1. エコ・ツーリズム現象 Ecotourism phenomenon


 エコ・ツーリズムの文化人類学的研究において、観光が熱帯生態学の発展に果たしている役割を議論することほど場違いに思えるものはない。観光 客は、概ね熱帯生物学には無知であり、観光ガイドブック以上の知識を持ってやって来ることはなかった。また、熱帯生物学者は、現地において観光客を場違い な闖入者として煙たがる傾向を持ち続けていた。観光と熱帯生態学はお互いに別物であり、相互交渉があるなどとは、誰も想像だにしなかった。

 ところが、最近になって、この認識が今や有効でないことを思い知らされる事実が陸続と現れてくる。熱帯生態学者たちは、その学問的良心に照ら して、不用意なエコロジー礼賛という回路を通してではなく、適切な自然保護思想の普及と実践にエコ・ツーリズムを活用する必要性を感じてきている。これは 1960年代末の大衆運動としてのエコロジーと学問としての生態学の今日的な意味づけの基礎をなした「遭遇」とは異なり、熱帯生態学と地域開発をより必然 性の高い社会運動へ節合させようとする要請から来ている[Boo 1990a; 1990b]。また先進開発国のエコ・ツーリストたちは、後進低開発国にある自然保護区での自己の経験をたんに「象徴資本」として獲得・蓄積し、階級的峻 別のために利用するという慣習から脱し、エコ・ツアー経験を、自己の日常経験の一部として組み込み、それを意義ある日常の生活実践に結びつけようとする萌 芽的な動きとも言える現象が見られるようになってきた。例えば、自然保護政策の見返りに不良債務の帳消しを約束する先進国の自然保護団体と途上国の交渉 (Debt-for-Nature Swap)や、途上地域の生産協同組合と先進国の消費者を直接結ぶ貿易形態である公正交易(Fair-Trade)などの活性化などである。

 熱帯生態学とエコ・ツーリズムの相互交渉がこのように活発になってきたのは近年のことである。従って、現代社会のエコロジー意識の生産と消費 の関係については、文化人類学の領域で十分に論じられることが今まで少なかったのは無理もないことだ。このような研究上の認識を補うためには、熱帯生態学 の知識生産とエコ・ツーリズム実践の社会的効果に関する具体的な民族誌上の知見の集積のみならず、それを分析する多様な視点について、一種の思考実験を含 んだ広範囲にわたる考察が必要となる。

 本論文は、熱帯生態学とエコ・ツーリズムという二つの社会現象のもつ一連の性格づけを明らかにし、それらの相互関係について分析する。この論文の基本的 概念を説明した本節に引き続き、その次の第2節では、エコ・ツーリズムの文脈において観光客の知覚体験を仮想的に再現することを通して、エコ・ツーリズム が含意する社会的文化的特性について分析する。さらに、第3節では生態学者の文化生産について、コスタリカの事例を検討する。第4節では、熱帯生態学の知 識生産とエコ・ツーリズム実践の社会的効果を、自然表象の生産と消費に関する理論という形で総括する。

 これらの一連の議論を展開する前に、以下で使用する基本的な用語を整理し、本論に必要な概念の整理をおこなう。私がここで定義したいのは、エ コ・ツアーとエコ・ツーリストとエコ・ツーリズムという相互に関連する社会現象であり、これらは相互に関連している[池田 1996]。

 エコ・ツアー 【定義】 

自然を対象とする具体的な観光実践である。自然保護区への入場、熱帯林の小道や湿地の水路での動植物の観察やウォッチング、イグアナ牧場やバタ フライ・ファーム(蝶の生態観察園)の見学、海亀の産卵観察など極めて多岐にわたる活動であり、人類学者の直接の観察対象をなす社会現象である。エコ・ツ アーには、その参加形態に応じて、パッケージ化されたグループ観光、個人旅行、オプション性のつよいオーダー・メイド化されたガイドツアーなど多様な形態 のものが用意されている。

 エコ・ツーリスト 【定義】

 エコ・ツアーに参加するすべての観光客の総称である。国内観光客と外国人に弁別することができるが、社会階層やエスニシティなども配慮すべき 視点になる。彼/彼女らはデータを得るためのインタビューの対象となるばかりでなく、調査者自らの参与観察を通して、後に触れるように現象学的なデータを 提供する主体そのものになることができる。エコ・ツアーは、後述するように、受け手にとって概念化された自然(=<自然>)を消費する実践であるため、自 ら学んだ知識や観光ガイドなどの案内などを必要とする。換言すればエコ・ツーリストは、ガイドらの補助無しにはエコ・ツアーを十二分に満喫することができ ないし、一時的にもエコ・ツーリストたるためには、それらの存在が不可欠となる。したがって、観光ガイドや<自然>に関するエキスパートである熱帯生態学 者も広義のエコ・ツーリストに含まれるのである。実際に、科学者がフィールドに出かける現象そのものは、特殊な観光すなわち「科学観光」とみなすこともで きる[Laarman and Perdue 1989]。

 エコ・ツーリズム 【定義】

 現代社会において自然を対象とする観光が生み出した諸々の社会現象である。エコ・ツアーやエコ・ツーリストが、具体的な実体をともなった研究 対象であるのに対して、エコ・ツーリズムはこれらの前二者から得られる事実に基づいて行われる議論のジャンルである。経験的に見れば、これまでのエコ・ ツーリズム研究は、エコ・ツアーに参加するエコ・ツーリストの実態を明らかにしたり、汚染や伐採などの環境破壊、森林や景観の保護などの環境保全、地元民 を巻き込んだ持続的開発(sustainable development)、自然認識の交換などが、エコ・ツアーに関わる全ての人びとの生活全般とどのような関係にあるのかについて考察することに、その 議論を費やしてきた。

 エコ・ツーリズムにみられる様々な社会的諸特性を素描してみよう。熱帯地域を訪れるエコ・ツーリストのほとんどは、先進国の中産階級あるいは それ以上の富裕な階級に属している。つまり、エコ・ツーリズムとは、実際には自然を観照の対象とする観光現象を指す以上に、地球レベルでの人の移動をとも なう国際観光という観点からまず対象をあぶり出さねばならない。国際観光はグローバルな観光客をローカルな空間に運び込むことで、観光客を送り出す社会と 受け入れる社会の両方に変化を及ぼすものと考えられる。

 エコ・ツーリズムではさらに自然という要素が加わり、環境と文化の構成体とも言うべき現象に観光客は関わることになる。その際、強調されるべ きことは自然というものの二重的性格である。自然は一方では人びとの前に具体的な様相としてあらわれ観照の対象となる。しかし他方で自然は抽象的な理念と して理解され、人びとの行動を実践面から規定する。この自然の二重性のゆえに自然は行為者に対して文化的加工を受けた姿をあらわす。後者の文化的加工をう けたものを、本論文では<自然>と表記して区別する。この自然の二重的性格に着目すれば観光客の自然認識についてより適切に把握することができる。エコ・ ツーリズムの研究では、観光のグローバル化によって生じた我々も含めた人びとの日常生活を、彼/彼女らの自然観との関連の中で立体的にとらえなければなら ない。

 エコ・ツアーは体験型の観光という世間の常識があるが、この自然の二重的性格に着目すれば、エコ・ツーリストは自然の核心部分に触れることな く観光地を去ってゆくように思われる。というのは、エコ・ツアーにおいて、自然をテーマにしたテレビ番組のように野生動物を熱帯林の中で見かけることはほ とんどあり得ないし、熱帯があたかも年中開花期にあるように思われている植物もまた実際には相対的に短い滞在期間で実見できることは極めてまれだからであ る。エコ・ツーリストが知識として仕入れた熱帯生態学の知見が産み出された場所は、保護区の中の非公開の地域にあり、観光客は容易にはその場所へ近づくこ とができない。だが、エコ・ツーリストは自然保護の精神について熟知しており、自然保護の規則を犯してまで保護地の内奥に踏み込むことはない。

 さらに、エコ・ツアーは一般の観光旅行よりも単価の高い旅行オプションであり、生理学的に不便な体験をするにもかかわらず、大方は満足して観 光地を去っている。一般的に観光にかける単価が高くなれば高くなるほど、観光客に提示される車両や船舶などの移動手段や宿泊施設などの快適さと煌びやかさ は増す。これを、成金によるこれ見よがしの消費つまり衒示的消費について考察した思想家の名前をとって「ヴェブレン効果」と名付けてみよう。ところがエ コ・ツアーにおいては高級になればなるほど、ヴェブレン効果は減衰するという、奇妙な逆転現象に出会うのである。

 このような常識を裏切る一連の逆説的現象をどのように説明すればよいのであろうか。私が用意する答えは、エコ・ツーリストは、どうやら自分た ちが抱く<自然>のイメージを消費することに関心があるのであり、自然の核心部分に触れることは当事者にとってさほど重要ではないということである。この ような仮説を、観光と近代についての社会学的考察[MacCannell 1976]を下敷きにして一連の別の論文[1996; 1998]の中で私は考察した。本論文は、その理論をさらに洗練させ、より多角的に検討しようとする試みである。


 2. エコ・ツーリストの現象学 Phenomenology of Ecoturism


 エコ・ツーリズムのグローバルな広がりをみるためには、「北」の観光客の、「南」の国の熱帯林におけるエコ・ツアーへの関わりや、「北」の国 に帰ってからの日常生活における実践に対する観察をおこなうことが必要となる。しかし、そのような旅行後の行為実践は、旅行以前から以後にかけての観光客 の<自然>に関する認知構造に大きく依存するものであり、また同時にそのような認知構造がエコ・ツーリストの主観的体験を解釈する枠組みを提供するのであ る。エコ・ツーリズムを、旅行する行為主体の側から解釈学的に理解する方法を、エコ・ツーリストの現象学と呼ぶことにする。その作業において重要となるの は、エコ・ツーリストの知覚体験とその社会的含意についての考察である。

 私は、現在までに撮影したり収集したスライド写真の映像の中から意図的に選択したものを利用して、エコ・ツーリストの現象学について、生態学 と文化人類学の専門家を前に事例解説をおこなった(2)。ここでは、それらの事例解説を通して、エコ・ ツーリストの現象学において旅行者の個別の体験がエコ・ツーリズム現象全体へと反映することを示してみる。ただし具体的な映像をここでは提示しない。その 理由は、一般的に映像を用いた事例解説は、映像にあらかじめ用意された言説を強力に結びつけることによって、ある種の演出効果を期待し、時に言説の信憑性 をはぐらかす未必の可能性をもつものだからである。ここではそのような誘惑を排除し、映像抜きで映像に随伴していた言説のみ——それでもなお読者に特定の 印象を誘導することには違いない——を掲げて、それらを検討対象することとしたい。数字を付された表題が、その言説がもともと指示対象としていた映像の キャプションである。

■注意:オリジナル画像が見つからなかったために代替画像を示しています

【1】ブラウン管に映ったピューマ(→「動物園のピューマ」)

■日本平動物園のピューマ:

 エコ・ツーリストが最初に抱く自然は、直接体験ではなく、外部から注入されたイメージから構成されていることが多い。いや、我々の日常生活に おいて示される熱帯地域の<自然>とは、動植物によって示される表象が、熱帯地域に関するさまざまな言説の中に統合されたものである。エコ・ツーリストが 自然を所有したいという欲望が、具体的な旅行計画や実際の森林での行動の中に結実するのである。中央アメリカのホテルのテレビで放映され提示された動物 (=ピューマ)は、当該国のエコ・ツーリズム振興をねらう政策担当者、投資家、観光業者にとっては、天然資源や観光資源の表象として理解されるかも知れな いが、エコ・ツーリストにとっては、これからのエコ・ツアーを通して消費される<自然>の表象となる。エコ・ツアーにおいては、それらの表象は自然環境と いう文脈の中で見られることを義務づけられるのみらず、ツアーの価格体系に組み込まれ、エコ・ツーリストの欲望を満たす消費の記号となることを意味する。 森林の中で、あるいは水路を走るランチャー(平底の小舟)の上で、エコ・ツーリストがガイドに頻繁に尋ねる質問「ここでは○○がみれますかね?」(○○は 固有の動植物名)は、複数の意味を担った<自然>の表象として○○が位置づけられていることを如実に証明する。

【2】パナマ共和国政府観光局のポスター(→ある観光旅行会社のサイトより)


■infinite Journeys Travel

 エコ・ツアーは後進低開発国の観光産業でも最も急速に成長してきたものである。あるいは先進開発国内においては「手つかずの自然が残されてい る」周辺遠隔地の地域振興の決め手となるものである。各国政府の観光局は、エコ・ツアーを観光開発の目玉に使おうとするが、エコ・ツーリズム開発は一筋縄 ではいかない。政策担当者は、従来型の観光開発のパターン——インフラストラクチャー整備をして国際的なホテルチェーンを誘致するような——に慣れたため に、しばしば持続的開発という立派な題目は掲げられるものの、実際の運用の推進や監督には苦慮しているのが現状である。コスタリカ共和国の隣国であるパナ マ共和国のエコ・ツアーの開発に携わる実務担当者は、私とのインタビューにおいて「自然は我が国のほうが、[コスタリカよりも]最も豊かなのです」とエ コ・ツーリズム開発の潜在力に関しての彼らの自信を露わにした。観光開発とは、観光地の潜在力と国際市場での名声や、インフラストラクチャ整備を含めた接 近性などの複合的要因で決定されるために、背景を無視した彼の釈明は隣国の成功に対する一種の嫉妬のようにも聞こえる。<自然>表象が流通する国内外の市 場の中で一度名声を獲得した観光地は、そこが治安の悪化や環境破壊というスキャンダルに巻き込まれない限り、その象徴的優位はなかなか切り崩されない。

【3】ガラパゴス諸島への入場を許可する「パスポート」



 エクアドル共和国の首都からガラパゴス諸島までは飛行機の直行便が飛んでいるが、航空会社はエクアドル空軍直営のものである。ガラパゴスへの 上陸に対して観光客用の上陸許可書——パスポートとよく似ている——が発行され、また観光客が所持する本物のパスポートにも自然公園入園のスタンプが押さ れる。自然保護区の空間的領域に関するこの概念は、国家の領土概念と同一であることが示唆されている。これは国家を超越する地球環境というエコ・ツーリス トが抱く<自然>の概念と認識論的齟齬を引き起こす。しかしながら、一般の観光客は、そこで指し示されているような<自然>の領域を国家が保証するという イデオロギーが働いていることには無頓着であり、むしろ保護区が境界づけられた領域であることに、旅行者特有の感動を覚えるようだ。これはホストの側の国 民にとっても同様であり「自然豊かな我が国へようこそ!」という政府観光局の観光客に対する<呼びかけ>は、さして観光局に洗脳されていないような一般市 民の口からも聞くことができる。エコ・ツーリストたちは<自然>の領域に入国するための疑似パスポートを保持できることを、素直に喜ぶ。本物のパスポート には、ゾウガメをあしらった「入国」スタンプが押される——出国のスタンプはないことが味噌である。疑似パスポートには、ガラパゴス特有の海イグアナを写 真が<自然>のイコンとして掲げられ、雰囲気をさらに煽り立てる。これらのイコンは、パスポートの中に旅行の記憶を痕跡として遺すことになる。

【4】ガラパゴス諸島をクルーズする観光船


【5】パナマ海峡バロコロラド島


 保護地への道のりは遠く、寄港地あるいは入口からはそこに至るまでに補助的な交通手段が必要になることもしばしばである。観光客は、幾つかの 小集団に分けられ、数人から十数人に1人の割合でガイドがつく。保護区への移動はガイドが必ずエスコートする。場合によっては、付近の風景の説明や、保護 区での観光客が行わねばならない振る舞いについての指示がある。パナマ共和国北部のクナ先住民族の居住地への観光には小型のセスナ機が用いられるが、観光 客が旅行代理店と契約する時に、先住民族への敬意や自然保護に関する契約書を交換することが義務づけられている。観光客にとって一見やっかいな手続きも、 この旅行代理店の社員によると「観光客は喜んでサインする」という。保護地区と非保護地区の象徴的な区分や、通過儀礼における移行として理解可能な移動 は、保護区が外部との境界によって常に維持されていることの証であり、この境界を越えてゆく移動そのものがエコ・ツアーにおける不可欠なエンターテイメン トを提供するので、契約書へのサインは旅行を演出する重要な行為であるということが言える。

【6】バロコロラド島上陸後のガイドツアー



 ガイドツアーの方式は、他の団体観光とほとんど同じ形態をとる。ただし、そこで重要なことは、自然保護区内の道を通ることが厳格に守られ、そ こから逸脱することを厳しく禁じていることである。ガイドは、エコ・ツーリストのエコ意識の倫理性に強く訴えかけ、エコ・ツーリストはそれを遵守すること にマゾヒスト的快感を覚える。<自然>を観察する行為の代価として道徳的サンクションがあることは、エコ・ツアーがもつ役割期待と役割行動の関係における ある種の齟齬を結果的に補うことに繋がる。その齟齬のひとつは、エコ・ツアーにおいては観光客が期待するほど野生生物——特に動物——を観察することがで きないことである。もちろん、ガイドは観光客のマゾヒスティックな鑑賞を無条件に期待することができないために、野生生物を鑑賞する際の条件の気まぐれさ を言い訳にしつつ、期待される野生生物の見物の代わりに、その足跡や糞を見つけ、その存在の確かさを強調して表現する。曰く「この足跡はまだ新しい」「こ の糞は分解の程度からみると一昨日にされたものだ」「開花後一週間でこのような状態になる」。また、観光客が容易に見れない野生動物への興味を、容易に見 つけることのできる植物や昆虫の「興味深い生態」への話題のほうにはぐらかす。このことがさして不満も出ずに受け入れられるようになる社会的条件とは、観 光客は現地の実際の自然の細部についてほとんど何も知らないことである。ただし、観光客もまた自然の中で学習するので、同じ手は繰り返し使えない。エコ・ ツアー・ガイドは、観光客との何気ない会話から、観光客の<自然>に関する知識量を推定し当意即妙の説明を引き出すことが要求されるゆえんである。他のガ イド・ツアーと同様に、あるいはそれ以上に、エコ・ツアーにおける言説行使は、その効果を生むために重要な活動なのである。

【7】コスタリカ共和国カウィータ国立公園にあった掲示看板(→「ガイドブック」)


■Everything You Need To Know Before Visiting Cahuita National Park - Scrimp, Splurge, Travel (吝嗇・誇張・旅行)

 掲示の意味は次のようなものである。「この土地はコスタリカ人のものですが、そのコスタリカ人はすでに死んだ人もおれば、まだ生きている人も います。そして、その多くはまだ生まれていない[未来の]コスタリカ人のためにあります」。

 この文言は、自然を享受する権利が誰にあるのかについて語ると同時に、持続的開発の思想を、国民に理解可能な形で語っている。自然は所有可能 な資源であり、その資源は我々の未来の国民と分かち合わねばならないからだ。自然保護区の中に、その背景に溶け込むような形で設置されたモニュメントの中 にさりげなく詩句を入れて、一種の美的形式を通して自然保護を訴えかけることは、中央アメリカの自然公園の中ではとくにコスタリカ共和国において顕著に見 かけられる。その点でもコスタリカはエコ・ツーリズム先進国である。自然保護区の他に遺跡公園での展示物の解説と並んで置かれたプレートの中に、このよう な国家的な言説を忍ばせていることは、中央アメリカのどの国でも観察することができるが、それがコスタリカのモードを真似たものなのか、あるいは共通した 特有のメンタリティが産出されるのかの確証はまだ私には得られていない。

【8】カウィータ国立公園区に隣接する私営のロッジ


 エコ・ツーリストは、野性的(wild)な雰囲気のなかに逗留することを厭わない。それどころか、積極的に野性的な雰囲気を観光対象に、そし て自己に求める。ホストもまたそのようなことを意図的に演出する。このエコ・ツーリストに対するホストの側の印象操作的サービス行為が結果的に、観光客で あるゲストの野性的な存在のシュミラクールへの願望に応える行為ではあるが、それはゲストの欲望に対して常に完全に従属するものではなく。ゲストの欲望に 対して柔軟に応えるホストの自発的創意にもとづく文化生産の実践とみなすことができる[池田 1996:76]。

【9】カウィータ国立公園区に隣接する私営の食堂の看板

 看板にスペイン語で書かれてある文意は「ビール園:喫茶と食事、国立公園より100m、朝6時より営業中」である。ここで注目すべきことはレ ストランの営業自体のことではなく、自然の表象が書き割りとして大木の幹に釘で打ち込まれた看板の中に込められていることである。ビール園のメッセージの 背景には熱帯林が描かれているのだが、その広告それ全体は実際の熱帯林の背景の中にとけ込んでいる。その人工的な<自然>の書き割りは極めて不自然なもの として観光客の眼に映る。それある種の奇妙さであり、あたかも広告そのものがカメレオンの保護色のように自然の中に溶け込んでいるという異様さである。コ スタリカの空港、首都サンホセの都市的環境の中で、自然を背景として取り込んださまざまな商品の広告を見かけることは稀ではない。<自然>の表象が都市的 環境の中で審美的な機能を発揮するからであり、広告の送り手もその中で商品化された<自然>を消費者に訴えかけたり、審美的な機能にもとづいて、全く関係 のない商品、例えば清涼飲料水や煙草のイメージの向上を試みているからである。ところが、全く同じものが、自然公園あるいはその付近で提示されると、それ は一種のスキャンダルとなる。大木に打ちつけられた<自然>を表象した看板の背景に広がる自然そのものが過剰なバーチャル・リアリティとなるのである。

【10】ガラパゴス諸島の空港内の土産物店の風景(→「コスタリカの首都サンホセの土産物屋」)


 エコ・ツーリストは旅の記念として自然の事物そのものを持って帰ることはできない。エコ・ツーリストは<自然>の隠喩的代替物として、動物や 風景をプリントしたTシャツ、流木を素材にした彫刻などを購入する。また、<自然>の喚喩的代替物として、木の実や押し花、あるいは貝殻や石ころが持ち去 られる。体験や記憶の表象として写し撮った写真やビデオもまた記念品となる。商品としての土産物品の多くのは、往々にして外から持ち込まれた<製造地不 明>——確認できたのはインド、インドネシア、香港など——のものに、ご当地の記念を表すシールが貼られたり簡単なプリントが施されたものである。

【11】野生動物の映像表象


 見事な野生動物の写真は、生息地の奧に踏み込めず時間的制約のある観光客には絶対に撮れない。そのために観光客のアマチュア写真に対して代替 的機能を果たすものが、土産物店で販売されている美しい動植物の写真である。これらの写真は、プロフェッショナルの写真家あるいはナチュラリストによる撮 影のもので、保護区にある売店兼土産物店で購入できる。ほとんど森林の中で見かけることのできないものは、スライドや写真の中でしか見ることができない。 このようにエコ・ツアーはエコ・ツーリストにとって決して満足のいくものではないように思えるにもかかわらず、エコ・ツアーはエコ・ツーリストに快感を与 える映像を補完物としていつでも用意している。

 この節の主張を総括してみよう。映像という虚構あるいは不在の現前という手法を通して、エコ・ツーリストが熱帯林の中で実践することを言説の 形でとりまとめる方法が、エコ・ツーリストの現象学なのである。しかしながら、この手法は、エコ・ツーリストがどのようにしてエコ・ツアーの経験を内面化 している様子を、他者に理解可能な形で描き出すことができるが、それらの経験がどのように構築されてきたか、またその論理的な根拠については、十分明らか にしえない。この社会的過程に関わるエコ・ツーリストと熱帯生態学者の相互作用について分析する前に、次節では熱帯生態学者が具体的にどのような人たちで あるのかを明らかにしておこう。


 3. 生態学者の文化生産 Cutural Production by academic ecologists


 ここでの説明に用いられた資料は、コスタリカ共和国にある法人組織が運営する自然保護区における熱帯生態学者の民族誌から得られたものである [池田 1998]。この法人は熱帯における生態学の研究と教育のために運営れている世界的に著名な研究機構であり、フィールド調査の対象となったのは、そのうち の一つの自然保護区である。この保護区の中には、研究者——そして最近では観光客も——を受け入れるための生活と研究の支援する設備があり、文字通り世界 中の研究者が利用している。

 この保護区で活動する人たちは、大きく研究開発の部門とそれ以外の管理の運営部門に属すかで二分することができる。前者は、保護区で調査する 研究者への便宜をはかる職員である。このスタッフは博士号を取得する研究者であり、研究者への研究指導を行える能力をもち、実際に指導をおこなうこともあ る。研究部門の職員は、北米の国籍をもつ人たちと、コスタリカおよび近隣のラテンアメリカの国籍をもつ人たちに、さらに二分することができる。この疑似民 族的な属性を二分する根拠は、母語とする言語(英語とスペイン語)が異なり、さまざまな局面で彼/彼女らの間に微妙な境界が形成されることが観察されるか らである。  管理運営をする部門には、保護区に受け入れている短期間の訪問者および研修者へのガイド、保護区の縦横に設けられている案内路の保守整備の労働者、 フィールド調査の労働助手、実験室の技術助手、食堂の職員、ならびに運転手などが働いている。この部門の職員のほとんどはコスタリカ人である。受付の秘書 や食堂のコックや管理者を除いて、彼/彼女らは緑のTシャツと棉パンツを着けており、容易に見分けることができる。スタッフの男女はほぼ同数である。

 管理と研究というセクションは確かに二分割されているが、その機能は必ずしも厳密に区分できるものではない。保護区の高位の責任者のうち何人 かは、研究者であったし、コスタリカ人を中心とした研究部門の中間管理職の職員は、自分で独自の研究をおこないながら、受け入れた研究者に対して、生活な らびに学問上の便宜を図る職務にも従事していた。

 空調装置が24時間働いている実験施設のある研究棟はラボラトリーあるいはラボ(laboratory, lab)と通常呼ばれている。ラボで働いている助手(assistants)は、この保護区を管理している法人を通してではなく、それぞれの個別の研究者 によって雇われている。雇用問題もあるのでこれに関しては法人そのものは関与していないものと思われる。彼らの1日の日当は、調査時点では15米ドルで あった——これは現地においては高給の部類に属する。研究助手は、場合によっては特定の研究者と長期にわたる雇用関係をもち、また研究上のアイディアを授 けてくれる存在である。その点で、熱帯生態学者と現地人の研究助手の関係は、古典的な民族誌制作における人類学者とインフォーマントの関係にどこか類似し ている。

 このような人たちは、この保護区に逗留し研究を円滑にすすめるための研究者たちを受け入れるスタッフであった。狭義の私の研究対象は、この保 護区の一時的な逗留者の生物学者たちであった。彼/彼女らは、北アメリカの学部学生、大学院およびパートあるいは常勤の研究者である。彼/彼女らは数週間 から数ヶ月間、保護区に逗留し、調査研究活動に従事する。法人の経営母体は、北米および中米の大学をメンバーとする連合体である。立派な附属研究施設が併 設されている(日本で言うところの)「演習林」が多数の大学および研究機関で経営されているようなものである。

 熱帯生態学者は、その研究活動に関して二つの実践的領域を行き来する。すなわち、そのひとつは、フィールドにおける実験と調査である。これ は、熱帯生態学者たちが、プライマリーな情報を得る領域である。彼/彼女らの活動の他のひとつは論文生産のためのデスクワークである。論文は、国内外の研 究者の間で流通することをもって作成されているが、この活動の延長上に、学会やシンポジウムなどの知的情報の交換活動などが位置する。

 熱帯生態学者を含め自然科学者は、科学的言説の流通に関してもっとも支配的で優位な言語である英語を介して、一種の想像上の言語的共同体を形 成している。この想像上の共同体が十分に機能するためには、英語使用という一種の文化的な制約があるという事実を、そこに参加している成員(熱帯生態学 者)が忘却するか、その合法性を言語の優越性とは異なった解釈枠組みの中で理解している必要がある。彼らの異なった解釈の最も典型的な例は、英語が「共通 言語」であり、言語は「普遍的理論」を理解するための道具にすぎないという説明である。このような熱帯生態学の当事者側の説明それ自体が問題のあるものだ と言うことはできない。しかしながら、この説明の枠組みに当てはまらない特異なケースが、「国際的な状況」の中で仕事をする彼らの日常的な生活の中でしば しば生じる。それは、学派間の解釈の対立や研究手法の相違であり、生態学者たちは、それをしばしば「文化」の違いで説明しようとする——例えば今西錦司の 進化論の受容をめぐる我が国の論争を想起せよ。だが、当事者によるこのような比較文化的な解釈の妥当性は、個別の科学者の創造性や独自性(偏奇性も含まれ る)という多様性という経験的事実によってうち消される。

 文化生産の議論にとってより重要なことは、熱帯生態学者の集団が他の社会集団に対して境界をもった想像の共同体であると同時に、普遍的でかつ 有効性をもった理論を生産している権威あるものとして、彼らの活動が社会から承認されていることである。そして、エコ・ツーリズムから熱帯生態学を見たと きに、観光現象の文化的側面に直接的な影響は、エコ・ツーリストが熱帯林の生物の豊かさを学ぶ際に、そのほとんどが熱帯生態学上の知識に依存していること に、もっとも典型的にみることができる。つまりエコ・ツーリストは、熱帯生態学の知見から自然保護意識を学び取ることになる。もちろん、ツーリストが自分 の社会に帰った時に、そのような知識に支えられている熱帯林での経験を、どの程度まで生活実践に結びつけている——つまり学習効果がある——かどうかには 議論の余地がある。

 熱帯林の自然保護区が確定される過程においては、特定の熱帯生態学者の英雄的活躍が大きく影響を与え、その確定において理想が現実のものとな ることがある。例えば、ダニエル・ジャンセンはコスタリカ共和国の国立公園の保護、保全および国立公園指定に貢献しつづけている生態学界の大物である。彼 の学問的影響力は『コスタリカの自然史』に寄稿した百数十名を超える共著者の数に示されている[Janzen ed. 1991]。彼は同国のグアナカステ地方周辺の用地購入活動と熱帯乾燥林の研究を通して、コスタリカ政府を動かし国立公園の指定を1989年にとりつけて いる。その際、二つの財団を受け皿にして公園の維持管理のための国際的な資金援助をつけることに成功している。


 4. <自然>の生産 Cultural production of "Nature"


 ツーリズムとツーリストの社会学的分析において対立する二つの考え方がある。ひとつは観光産業を虚構を演出する産業としてみなす立場で、この 主張を代表するのがブーアスティン[1964]である。彼によると、大衆観光の時代を迎えてから以降は、移動を通して人生の目的にとって何かを得るという 旅行者(traveler)がいたが、観光産業が提示する疑似イベントを堪能するだけの観光客(tourist)へと堕落した社会状況を批判的に見た。こ れに対して、疑似イベントは観光の社会的関係が産み出した帰結であり、個々の観光客の意識に着目すると、人びとは観光の中に意味を見いだす作業をおこなっ ているのだと指摘するのがマッカネルである[MacCannell 1976]。観光の中に意味を見いだす作業とは、観光客自身が本物でリアルな体験を求めようとする志向性を持っていることをさす。マッカネルによると、観 光客は疑似イベントで簡単にごまかされるというような存在なのではなく、常に本物を見たいという動機を持ち続けている。観光を演出する側は、観光客の意図 をはぐらかしたり、また逆にそれに部分的に応えようとしているために、それらの相互作用は複雑かつ弁証法的に構成されることになる。

 つまりこういうことだ。観光客は、観光において通常提示される舞台の裏側——社会学者ゴフマンのいう裏(back)の領域——をリアルな本物 の世界として覗こうとする。しかし、観光現象の裏側で実際に起こっていることを、観光客に見せられることは観光そのものを円滑に運営してゆく過程において は通常は許されることはない。例えばディズニーランドで踊るドナルドダックのぬいぐるみの中にいる人に観光客のいる前でインタビューするという状況を想像 されたい。ところが近代観光の仕組みは、そのような観光客の欲望を完全に閉め出しているわけではない。観光業者たちは観光客に舞台裏を見せる操作つまり演 出を観光客に対しておこなう。このような加工によって観光客に提示されるのがマッカネルの言う「演出された本物」(staged authenticity)である。彼は、人びとに対して「演出された本物」が提示される例として、消防署や工場や銀行などへの児童向けの社会見学や、ふ だん訪れることのできないケープ・ケネディ宇宙センターへの観光などをあげている。立入禁止の領域に入ることを、社会見学という形態をとる観光は可能にす る。だが児童や観光客が入っているのは実際の業務がおこなわれる空間ではあるが、その空間でおこなわれる現実の業務そのものは実際には提示されていなかっ たり、制限されたものになっている。そこには情報を握る側の不断の管理技術が見られる。観光客に見せられるものは、本物の裏側ではなく計算され演出された 裏側の領域だという。マッカネルによればこの「演出された」裏側の領域は、いまだ研究者によって分析用語が与えられていない「生きた博物館」のようなもの である[MacCannell 1976:98-99]。

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 このことを敷衍して、エコ・ツアーにおける自然の本物性について考察を進めよう。自然はすべてが本物であり「演出された本物」などはないと言 えるだろうか。そうとも言えないようだ。自然保護区の物理的な空間区分について着目すれば、自然は不均質な空間として社会的に認識・区分されていることが わかる。自然公園の多くは、観光客に公開されている部分と非公開の領域があり、観光客は許可された部分しか歩くことはできない。エコ・ツーリストに開放さ れている空間とは、管理者や科学者だけが歩ける空間(=本物)とは区分されている。エコ・ツーリストに開放されているのは「演出された本物」の空間である(図1.の左側の同心円部分と中央の内側の楕円のサイクルを見よ)。彼/彼女らは全体の空間区分を全く 知らないわけではなく、容易に立ち入ることのできない禁止区域があることを経験的に知っている。ガイドや管理者は、禁断の地区を科学研究のために保存され ている大切な場所であると説明する。エコ・ツーリストたちは是認や処罰を通して生じる社会的拘束(sanction)を守ることが正しい振る舞いであるこ とを学ぶ。本物の神秘化と「演出された本物」を通して<自然>という空間が秩序づけられているのである。

 エコ・ツーリストは自然保護区における「演出された本物」に触れることを通して、皮肉にも本物でリアルな体験を享受しているのである。では、 なぜそれが可能になるのであろうか。エコ・ツアーの文脈では、本物の自然すなわち「立入禁止地区」で繰り広げられている現象を覗き込む代償として立ち入る ことを踏みとどまるという徳性を自らのものにする。エコ・ツーリストにとって認識論上の未知の領域は、専門の生態学者がもたらす知識によって神秘化されて いるが、それを道徳的に埋め合わせるがエコ・ツーリストの徳性なのである。熱帯生態学の知識の神秘化は、完全な秘匿を通してではなく、社会的啓蒙という知 識の部分的漏洩行為によって維持されている。このことをさらに説明しよう。

 エコ・ツーリストの関心は自然の核心つまり本物の自然に触れることにある。ところが、本物の自然とはあくまでも観光客の頭の中にある抽象的か つ集合的なイメージにすぎない。エコ・ツーリストの前に現れる<自然>は動植物やその痕跡であり、それらはネイチャー・ガイドの言説を通して初めて具体的 な像を結ぶ、極めて不確かな実体なのである。そのようなものを確固とするには、エコ・ツーリストが保護区にやって来る前に抱いている予備知識を、特定の言 説を通して予め注入しておき、保護区の中で過ごした僅かな時間を永続性のある記憶として留めておく必要がある。その重要な言説こそが自然科学者とりわけ熱 帯生態学者が生産する理論に他ならない(図1.の右側の同心円部分と中央の外側の楕円のサイクルを見よ)。 そのような理論は学術論文の形で権威ある国際会議や学会誌において公表され、専門の学者本人あるいは良質の啓蒙家を通して、一般大衆の間に膾炙される必要 があり、そのような社会活動を通して生態学の公共的知識(publicity)が可能になる。

 先進諸国の中産階級——より典型的には経済資本よりも文化資本が卓越する「プチブル」知識人や技術職——の人びとは、エコ・ツアーを他の大衆観光の形態 と峻別しつつ、それを卓越化(distinction)して享受しようとする傾向が強いので、エコ・ツーリストは一種の想像の共同体を形成することになる [池田 1996]。卓越化の原動力となるのが、エコ・ツーリスト自身の日常の自然保護に対する関心の持ち方や、さまざまな生態学者——現代の北アメリカにおける 最も代表的な著者はエドワード・O・ウィルソン(3)——による熱帯生態学啓蒙書やナショナル・ジオグラ フィック誌の読書や、テレビやビデオなどの視聴経験である。エコ・ツーリストは、熱帯生態学の学術専門誌を読まないが、それらの研究の社会的意義を専門家 と共有し、かつ大衆化した生態学理論に精通している。そのような知識が、比較的高額で参加人員の限られた旅行者に開かれているエコ・ツアー体験を充実させ るのであり、エコ・ツーリストどうしの相互の卓越化にも貢献することになる。同様に、熱帯生態学者は<自然>というフィールドと知識生産の現場である実 験・研究室や学術集会という現場を往復しながら、熱帯生態学に関する言説を生産しつつ、熱帯の<自然>のあり方を示唆している。学術論文は内部の専門家の みに書かれたとしても、エコ・ツーリズムが受容される社会的文脈においては、啓蒙活動を媒介として、結果的にエコ・ツーリストに対して開かれたテキストに なるのである。

 このような過程を通してエコ・ツーリストと熱帯生態学者は、相互に関係を持ちながら現代社会における<自然>と知識の生産に貢献することにな る。


 5. 結論 Conclusion


 以上のような観察事実とそれを踏まえた分析を通して、本論文の結論を次の3点にまとめてみたい。

 (1)近年の社会現象としてのエコ・ツアーは探検旅行やアドベンチャーツアーとは峻別して考えるべき社会現象である。

 エコ・ツアーは、その出現に先立つ類似の先行形態と思しき旅行や観光から派生したものと理解されることが多い。これは、旅行形態の類型的分類 の発想から生まれたものである[Graburn 1989]。ところが、エコ・ツアーには発見を目的とした探検旅行にも、体験に優位をおくアドベンチャーツアーにもない独自の特質がある。それは、自然を 本質化し、その核心に触れようとしながら、その手前で満足をするという知的実践によって特徴づけられるものである。本論文では、自然を本質化する実践と は、自然そのものをエコ・ツーリストにとっての概念化された実体である<自然>に言説活動を通して変換する作業を意味し、「演出された本物」を本物の代わ りに受容することで、自然への認識の核心にいたる手前で満足しても決して欲求不満に陥らない社会的機制が存在することを示唆した。

 (2)エコ・ツーリズムは、現代社会における自然志向が高じて生まれてきたものであるが、エコ・ツーリズムへの高い社会的需要が維持さ れている理由は、熱帯生態学の学問的成果の大衆的受容によるものである。

 エコ・ツーリズムの隆盛の理由を、先進開発諸国における環境問題の関心や後発低開発地域の熱帯林資源の枯渇への憂慮に求める大衆的解釈が広く 受容されている。しかし、環境破壊への憂慮をもって、エコ・ツーリズムにおける調和した生態系や神秘に満ちた自然への憧憬を理解し、エコ・ツアーを体験し ようとする人びとの積極的な動機とすることは、やや説得力を欠く。実際の観察を通してみると、エコ・ツーリストの地球環境問題への配慮や環境破壊への反省 は、むしろエコ・ツアー体験の後に生じる、<自然>を消費した行為の副次的な産物であると結論することができる。

 エコ・ツアーの舞台である自然保護区の管理は熱帯生態学という学問の権威によってかろうじて維持されている。自然保護区周辺の環境破壊は熱帯 生態学者にとっても脅威であり、そのため環境保護の立場から熱帯生態学者は、その学問の大衆化やエコ・ツーリズムを通しての<自然>の政治化に関心を持た ざるを得ない。エコ・ツーリストの自然観は、熱帯生態学者からのこのような働きかけを常に受けているのである。学問的信念に基づく自然保護運動の未来は、 自然に関する知識をいかに上手にエコ・ツーリズムの政治に節合させてゆくかにかかっている。この熱帯生物学者の社会性への重視は、エコロジー運動の隆盛以 降、進化主義生態学の席巻[Woster 1990]によって一時沈静化していたものであるが、現在再び勃興しつつあるというふうに、歴史の中では比較的短いサイクルで繰り返し生起しているように 思われる。従って、その社会的過程に自覚的になればなるほど、普遍的営みと考えられることの多い自然科学としての熱帯生態学の知的枠組みを社会的に脱構築 させてゆく必要がある。本論文はこの脱構築のためのひとつの試みであった。

 (3)エコ・ツーリズムと熱帯生態学の相互作用に関する文化人類学的調査研究は、現代社会における文化生産の分析に関する重要な示唆を 与える。

 ヴァン・デン・バーグは、メキシコ南部のチアパス高原の観光地の先住民族の生活をかいま見る民族観光(ethnic tourism)にやってくる様々な外国人観光客へのインタービューや参与観察を通して、最終的に民族観光をおこなうことは「民族誌の戯画」であると表現 している[van den Berghe 1994]。このような解釈図式を我々の事例にずらしてみれば、エコ・ツーリズムは「生態学の戯画」であると言えよう。先進開発諸国の生態学者たちは熱帯 地域の自然をフィールドとして、そこから得られたデータをもとに論文を生産する。そして国立公園指定のためのロビー活動を当該国の政府におこなって、地元 のエリートと連携をとって自然保護区を創設させたり、危機からそれを救った。エコ・ツーリストたちは<自然>の象徴的消費を通して自己の環境保全意識を産 出させた。先進開発諸国の環境主義者たちは、森林伐採を阻止するために本国で不買運動を起こした。生態学者もエコ・ツーリストも環境主義者も、<自然>を 駆動力にして彼らに与えられた自然を価値のある空間に変えようとしてきた。例え、それがしばしば地元の人たちにとって、まったく異なった意味の行為に映っ たり、また別種の社会的効果をもたらしたりしたとしても、である。

 最終的な結論である。熱帯生態学の社会性と強く結びついたエコ・ツーリズムを文化人類学的に分析するというのは、環境をめぐって相克する人び との断片的なリアリティを相互に節合させ、所与ものとは異なった実践を産み出すビジョンを提示することにある。


註 Notes

(1)この論文に使った資料の収集と分析には、以下のような研究に関する補助金や助成が伴っており、関係 機関ならびに関係者各位に謝意を表したい。平成6年度文部省科学研究費補助金「カリブ海地域におけるエコ・ツーリズムの比較研究」(研究代表者:国立民族 学博物館・石森秀三・助教授<当時>)。平成8年度文部省科学研究費・海外開発動向調査「エコ・ツーリズム(生態観光)と持続的開発に関する先端研究の動 向調査」(研究者:池田光穂)。カリフォルニア大学バークレー校・人類学部・客員研究員(1997年1月〜3月、受入教官:ネルソン・グレーバン教授)。

(2)発表は、池田光穂「エコ・ツーリストと熱帯生態学——<自然>のイメージの生産と消費について」国 立民族学博物館・地域研究センターシンポジウム「グローバリゼーションと生物多様性」、1997年12月22日であり、地域研究センター・吉田集而教授ほ か多数の参加者の方々から貴重なコメントや批判をいただいた。なお、このシンポジウムでの発表のきっかけとなったのは、同年3月5日にコスタリカの自然保 護区で故・井上民二・元京都大学教授との偶然の出会いにあった。井上教授から保護区の現場でうかがった熱帯生態学をめぐる興味深いエピソードから触発され たテーマを本論文では十分に活かしきれなかったが、それは今後の私の課題である。

(3)中央アメリカの保護区であった北アメリカの蟻の生態学者の間で最も影響力のある本が、Bert Holldoblerとの共著になる The Ants, 1990 や、その大衆版であった。二度もピュリツアー賞を受けた名うての文筆家でもある当代最大の昆虫学者兼ナチュラリストは、1970年代末期の社会生物学論争 を生き残り、生物多様性に関する議論の最大のエキスパートのみならず、ポストモダン時代の生物学における宗教的託宣者としての風格さえ感じさせる [Wilson 1994; 1998]。


文献 Bibliography


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池田光穂(Ikeda, Mitsuho) 1996  「コスタリカのエコ・ツーリズム」『移動の民族誌』(岩波講座・文化人類学・第7巻)、pp61-93、東京:岩波書店(Mitsuho IKEDA, Eco-Tourism, Exploitation and the Cultural Production of the Natural Environment in Costa Rica.)(→「文化生産のエンジンとしての〈自然〉」)

池田光穂(Ikeda, Mitsuho) 1998  「フィールド・ライフ─熱帯生態学者たちの微小社会活動に関する調査の概要─」、『熊本大学文化人類学調査報告』第2号、pp.97-135、熊本:熊 本大学文学部文化表象学教室

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Worster, Donald 1990 The Ecology of Order and Chaos. Environmental History Review 14:1-18.


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